千葉県鴨川市 大本山小湊誕生寺 公式サイト

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月刊こみなと

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もう一度自分を蘇らせるとき 月刊こみなと

第629号 平成27年5月1日

 

三界の火宅

 

 

法華経では、わたくし達の住まっている婆婆世界を、「三界の火宅」といっています。

これに対し、仏の悟りの世界を「我が浄土は破れず」と言われています。(こみなと誌編集室)

 

 

同じ欲令衆(よくりょうしゅう)には、「如来は己に三界の火宅(かたく)を離れて、寂然(じやくねん)として閑居(げんこ)し林野(りんや)に安処(あんじょ)せり」と。

 

 

 

欣求浄土(ごんぐじようど)


ところが、日蓮大聖人以前の他の宗門の人々は、三界つまり我々の住まっている衆生(しゅじょう)の世界と、仏の世界とは別の所と考えていたのです。(同)

 

 

これが、あの「厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじようど)」という西方に弥陀如来を願求する思想が生まれたのです。

 

 

 

迷いと悟り

 


大聖人は、これを七百年も昔に「それは間違いなのだよ」と、喝破(かっぱ)なされたのですね。(同)

 

 

その通りです。実は、これは別々のものではなく、一つの両面だったのです。

つまり同じものを一方から見れば迷いであり、他の一方から見ると悟りなのです。いわゆる「掌」(てのひら)」とと見れば同じなのです。

 

 

 

一生成仏抄(いっしょうじようぶつしょう)

 


このことを日蓮大聖人は、懇切叮嚀にわたくしたちにご説明をくださっているのです。(同)

 

 

その分かり易(やす)いお言葉が、次の一生成仏抄(いっしょうじょうぶつしょう)という御書(ごしょ)だったのです。

「衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとして、浄土(じょうど)と云(い)い穢土(えど)と云うも土に二つの隔(へだ)てなし。只(ただ)我等が心の善悪によると見えたり。衆生と云うも仏と云うも亦(また)かくの如し。迷う時は衆生と名(なづ)け、悟る時をば仏と名(なづ)けたり。譬(たとえ)ば闇鏡(あんきょう)も磨(みが)きぬれば玉(たま)と見ゆるが如し。只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。是を磨かば必ず法性真如(ほっしょうしんにょ)の明鏡(めいきょう)と成(なる)べし。深く信

心を発(おこ)して、日夜朝暮(ちょうぼ)に又懈(おこた)らず磨(みが)くべし。何様(いかよう)にしてか磨くべし。只、南無妙法蓮華経と唱え奉るを是(これ)を磨くとは云うなり」と。(次号に続く)