千葉県鴨川市 大本山小湊誕生寺 公式サイト

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49.江戸時代の境内絵図

49.江戸時代の境内絵図

誕生寺の境内絵図は、絹本に綺麗に彩色されたものがよく知られています。

この絵図には、寛政3年(1791)に需(もと)められて写したことを絵師が記していることから、オリジナルではないことが判明します。江戸時代の誕生寺は、元禄16年(1703)の大地震・津波、宝暦8年(1758)の大火と、繰り返し大きな災害に襲われ、その度毎に復興してきましたから、原図となった絵図がいつ頃の様子を描いているのか、残念ながら明確ではありません。

境内絵図は、この他に版木が二点伝わっています。二点共に近年になって確認されたもので、版木制作の年代等の銘文はありません。一点は、『小湊山絵図』と題され版面横42センチ程の扇形に描かれたもので、ありがたいことに建物などに名札が付けられていますが、数多く刷られたと見えて版木が摩滅し、判読に困難な部分も多々あります。構図は寛政の絵図とほぼ同様ですが、画面が小さいこともありかなりの省略があるようです。

もう一点は、この度詳しく調査されたものです。やはり『小湊山絵図』と題されていますが、版面縦56.5センチ、横87.5センチと大判の絵図です。この絵図は、誕生寺を中心にして、蓮華淵・弁天島から岩高山・上総国に至る市ケ坂までを俯瞰したもので、距離や地形を正確に縮尺した地図とは異なります。構図や、描かれた建物の細部に至るまで寛政の絵図と一致しますから、恐らくは寛政の絵図の原図となったと思われます。詳細に描かれるだけではなく、扇形の絵図と同様に名札が付けられていましたから、建物などの名称も明らかにできます。

絵図を見ると、境内の中心にお堂が三棟並んで描かれています。このうち、向かって左側の大きなお堂が祖師堂です。中央にある「万仏堂」は、二十六世貫首日孝上人の代に建立されたものです。万仏堂の右側にある「はい堂」は、二十七世貫首日裕上人代の正徳3年(1713)に建立された六間四面の月牌堂でしょう。境内左手の山際には、十九世貰首日遵(にちじゅん)上人代の寛永19年(1642)に建立された三重塔が、その近くには「大仏」があります。これは『小湊大観』に記録される釈迦牟尼銅像でしょう。とすれば、やはり日孝上人代の宝永4年(1707)に造立されたものです。大仏を除いたこれらの諸堂は、宝暦8年(1758)の大火で焼失したと考えられますから、絵図は日裕上人の代以降で、宝暦の大火以前の様子を描いたものと考えられます。ちなみに現在の本堂や客殿・寺務所などがある本院について見ると、方丈・客殿・対面所・大書院・御居間の他に宝蔵らしき建物が建ち並び、出仕門・台所門、更にもう一つ門がありました。

絵図を子細に見るとき、現代の五十万人講は、往時への復興を十二分に成し遂げたといえましょう。